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コミュニティ幻想

これは今読んでいる本のメモと感想です。


希望はコミュニティ



なぜこれほどまでに僕たちの時代ではコミュニティという言葉が氾濫しているのだろうか。僕はバウマンの本を読んで少なからず、コミュニティの問題について自覚的になれた。つまりコミュニティというのは「希望」でしかないということです。


バウマンはとてもリアリティに基づいて記述しています。しかし、バウマンの言うように、「温かいサークル」のようなコミュニティが幻想でしかないのなら、あまりにも残酷です(本当にバウマンはなんて身も蓋もないことをいうのだろうか)


しかし、それでも人がコミュニティを求めていることには変わりなく、これはつまり僕らのコミュニティ志向な生き方というのは、ありもしない「希望」の実現を目指したものでしかないということです。


グローバルエリート


コミュニティに属さないで生きていける人たちもいます。バウマンはその人たちのことをグローバルエリートと呼びました。


彼らの場合コミュニティに参加するということが自分の利益にならないことを知っているわけです。彼らはコスモポリタンな世界で生きてると言ってもいいぐらいグローバルに働いたり生活していたりするために、ナショナルだとかネイションだとかを必要としないという背景があります。しかし、それでは彼らが多文化主義的なのかというとそうではありません。彼らは非常に原理主義的なのです。


リキッドな近代・そして達成されない日本の「近代」


グローバルエリートを生み出した背景にはもう一つの原因があります。近代主義なき近代の誕生です。いまや、大きな意味での啓蒙やエリートという概念は失効している状態ですが、これらは近代というものを形作るには不可欠なものでした。しかし、近代が西洋で達成され、何年か経ち、この中抜きされた近代というものをみるにつけて、やはり近代主義という規範の衰退はとてつもなく急速なものでした。


では、日本ではどうなっているのかというと、これが非常にややこしくなってしまった。
ここからは僕の考えが余分に入っているのだけど、この国では近代と大衆文化というのが混然一体となってしまったことがとても「ねじれ」を生んでおり、これによって右も左もダメになってしまったということが言えてしまう。


この発想自体、すごく単純なんだけど、あながち間違っていないというかリアリティとして、これだけネットが発達したのにウィキペディアの編集回数の上位がアニメ関連ばかりの日本ってなんなのっていう(笑)

ブログはじめました。

はじめまして。

このブログでは不登校やひきこもり、または僕の趣味や興味のあるなどについて書いていきます。

社会学を勉強しているので、授業のメモや考えていることのまとめなども、このブログに載せていく予定です。



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